疲弊しきった蜀に魏が襲い掛かる ~蜀の最期の戦い~

劉備が建国した蜀の国・・・その最後の姿をまとめてみます。

諸葛亮亡き蜀

234年の五丈原の戦いで諸葛亮は病死してしまいます。その後諸葛亮がやっていた蜀の政治面を諸葛亮の遺言通り蒋?が担当することになります。まもなく蒋?が病にかかると、そのあとはやはり諸葛亮の遺言通り費?が担当することになります。

こうして諸葛亮が亡くなった後もしばらくの間政治面では安定はしていました。

姜維、諸葛亮の意志を継いで北伐を繰り返す

姜維は諸葛亮に魅せられて魏から蜀へ寝返った人物です。姜維はたびたび諸葛亮が行った北伐を実行しようと強く主張していました。

今の蜀にそんな国力は残っていないと費?が押しとどめていましたが、この費?が死亡した後は誰も姜維を止める人がいなくなり、姜維は積極的に魏へと侵攻をかけるのでした。

しかし、何回攻めても思ったような成果を上げることができず、姜維の北伐は逆に蜀の国力を疲弊させてしまう結果となったのです。

劉禅、黄皓を気に入る

さて、劉備が亡くなった後も諸葛亮が北伐をしていた時もあまり名前が出なかった劉禅という人物がここで登場します。

劉禅とは劉備の息子であり、長坂の戦いで趙雲が必死に救出した人物(この時は阿斗という名前だった)でもあります。

劉禅は劉備が亡くなった後に蜀の二代目皇帝として君臨していたのですが、実質的な政治に関しては諸葛亮や蒋?などにほとんど丸投げ状態であったため今まで名前があまり出てこなかったのです。

劉禅は諸葛亮亡きその後において、黄皓という宦官を気に入り、そばに置くようになります。黄皓は非常に自己中心的な人物であったため、黄皓が本格的に政治に口出しをするようになると蜀の国はたちまち弱体化していきました。

姜維の北伐、そして黄皓の独占的な政治によってもはや蜀の国は自国を守る力さえもありませんでした。

魏の大侵攻

そんな状態で魏軍が本格的な侵攻を始めました。蜀軍は姜維が中心となってこれに対抗しようとしますが、もはや蜀軍に魏と対決できるほどの力は残っていませんでした。

姜維軍はたちまち追い込まれ、また別ルートでこっそり成都に進軍した鄧艾が劉禅の目の前に現れると、劉禅は自らを縄で縛り鄧艾に投降し、蜀の国はここで滅びを迎えることになりました。263年でした。

姜維ら一部の人たちは皇帝が投降してもまだ抵抗を見せていましたが、紆余曲折の後撃破されてしまうことになります。

劉禅は蜀に何の思い入れもなかった

投降した劉禅にはその後においてこんなエピソードがあります。

ある日、かつて存在した蜀の音楽が流れてきました。旧蜀の役人たちはそれを聞くとたちまちやるせない気持ちになりますが、劉禅だけが平然としていました。そして、「蜀のことが気になりませんか?」と聞かれると「別に。」と答えたと言います。それほど劉禅にとって蜀に対する思い入れはなかったといえます。

そして、現在の中国において「扶不起的阿斗」ということわざが存在します。これは「助けようのない阿斗」という意味で、どうしようもない人のことを指すことわざです。劉禅は諸葛亮をもってしても支えることはできなかったのです。

ちなみに、google翻訳において中国語で「阿斗」と入力し、それを日本語に訳すと・・・

※英語やロシア語に訳しても同じような意味の単語が出てきます。

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