諸葛亮の第3次北伐と孫権の皇帝即位

街亭、そして陳倉と北伐は失敗しますが、それでも諸葛亮は諦めません。

うまくいかない北伐

第1次北伐の街亭の戦いでは馬謖が諸葛亮の言いつけを聞かなかったことで、第2次北伐の陳倉の戦いでは陳倉城があまりにも固すぎたために両方とも北伐は失敗しています。

それでも諸葛亮はこの後も北伐を続けます。

第3次北伐

第3次北伐は229年に実行されました。侵攻ルートは第1次北伐と同じ祁山を通るルートです(祁山を超えると街亭がある)。

また激戦になるかと思われましたが、何と諸葛亮が祁山の手前まで進軍するとそれに対抗しようとしていた魏軍があっさりと引き返してしまったのです。

これによって、諸葛亮は戦わずして蜀の領土を広げることに成功しました。また、この功績によって諸葛亮は街亭の戦いで自ら降格した爵位から丞相へと再び返り咲いたのです。第1次北伐と第2次北伐は一体なんだったんだと言わんばかりのあっけない勝利でした。

次は第4次! しかし東から急報が

第3次北伐が成功し、次はもっと領土を広げよう! と行きたいところですが、ここで蜀にとんでもない報告が来ます。

「孫権が皇帝に即位しました!」

このタイミングで孫権は自ら呉を建国し、皇帝に即位したのです。これによって、中国大陸は正式に魏、蜀、呉の三国が同時に存在する三国時代へと突入したのです

(厳密に言えば三国時代は孫権が皇帝に即位してからなので、これ以前の孫権の勢力を呉と言ったり、曹操の勢力を魏というのは間違っていることになる。

しかし、後漢朝廷の影響力は後漢の滅亡前からすでに失われ、事実上曹操や劉備の勢力が独立していたため創作物によっては便宜上曹操軍を魏軍、(皇帝に即位する前の)劉備軍を蜀軍と言ったりすることもある)

蜀の人たちは孫権の皇帝即位に対して怒りの声が上がり、一部の過激派は呉との同盟を切るべきだと主張する人まで現れましたが、諸葛亮は軍事的な面からみて今呉と事を構えても何らメリットはないことはわかっていました。

しかし、怒りの声を上げる人たちに対して諸葛亮これをおさめるのに苦労をし、そして内心苛立ちもしました。結果的に夷陵の戦いとなるような事態を避けることに成功し、蜀は呉との同盟を続けていくことで国内がまとます。

諸葛亮は皇帝に即位した孫権に対して祝福の意を伝えました。呉から思わぬ横やりが入りましたが、諸葛亮は何とか蜀内を落ち着かせることに成功し、いよいよ第4次北伐へとつながるのです。

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