三国志における一番の自己中心的な野心家 ~袁術~

袁紹の弟である袁術とは、どんな人物だったのでしょうか?

袁術は非常に自己中心的で野心的な人物であった

袁術は名門袁家の一族であり、袁紹とは兄弟関係にありました(袁紹が兄で袁術が弟。袁紹は後に親戚の養子となる)。しかし、兄弟仲はとても悪く、その仲の悪さはお互いに支援をしないことはもちろん、劉表と孫堅が戦った荊州の戦いにおいては袁兄弟の対立が引き金とも言われています。

袁術の行動は虎牢関の戦いにおいて自らのことを考えて孫堅軍への兵糧の輸送を遅らせるなど、自己中心的な部分が目立つ人物ではありましたが、それが一番よく表れている部分といえばやはり自ら勝手に国を作って皇帝を名乗ったことではないでしょうか?

袁術はかねてから自らが皇帝になりたいという野心を持っていましたが、その野心を現実のものにしてしまったのです。

「仲」という国を作り、自ら皇帝として即位することは後漢からすると重大な反逆行為であり、献帝を擁していた曹操はもちろん、劉備などの各勢力との関係が悪化する結果となりました。

また、袁術が統治していた地域では恐怖政治とも呼べる状態になっていたため、民の生活も苦しいものであったといいます。

袁術の生涯

袁術の人生を年表で見ていきます。

出来事
191 袁紹の新皇帝擁立計画に猛反発して袁紹と不仲になる

袁紹が劉表を荊州刺史に任命したため、これに苛立った袁術は孫堅をけしかけて劉表を攻撃させる

194 孫策を迎え入れる
196 劉備を攻撃する。石亭で戦闘となり、勝利する

時期を待たずに紀霊に劉備を攻撃することを命じるも、呂布の仲裁によって失敗する

197 自ら「成」を建国、皇帝に即位する(その影響で孫策との縁が切れる)
自身の息子と、呂布の娘との縁談が持ち上がるが、呂布が突如これに反対したために呂布を攻撃するも、返り討ちにあう(更に曹操軍からも攻撃を受ける)
199 勢力を維持するのが難しくなったため、袁紹を頼って北上を試みるも、移動の途中で命を落とす

行き過ぎた行為は身を滅ぼす結果になった

最終的には自ら国を作って皇帝になるという当時の後漢時代においては非常に常識はずれな行動をとった袁術は、最終的には周りの支持を得ることはできずにその身を滅ぼす結果となりました。

皇帝を名乗っていたころはまさに後漢の皇帝と同じような待遇を受けた生活を送っていましたが、やがて敵に討伐されるにつれて次第に厳しい生活を迫られることになり、最終的には自らの食べ物にも困ったといいます。

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