呉の武将たち その1 孫権

呉を建国し、長らく江東の地に勢力を保ち続けた呉の初代皇帝、孫権についてまとめていきます。

兄が築いた勢力を長きにわたって維持してきた

勢力を維持すると言っても、周りでひっきりなしに戦闘が行われており、また当時は勢力内での反乱も多いこの時代に勢力を維持することは非常に難しいことです。実際に長く勢力を維持してきた人物としては劉表や劉璋などがいますが、いずれも外圧によって滅亡しています。

しかし、孫権はそういった外圧にも毅然とした反撃を行ったり、時には相手と同盟を結んだりなど、外交面における駆け引きもほかの平凡な君主と違って一枚上手だったといえるでしょう。

さらに、トップに立ちながらも部下の様々な意見をよく聞く人物でもありました。曹操という大勢力を目の前にしても最終的には徹底抗戦をすることを決断し、さらに諸葛亮にいろいろと言いくるめられて「貸し」にしていた荊州の地を絶妙のタイミングで取り返すなど、時には武力で事を構えるも積極的に行いました。

孫権の生涯

孫権の人生を年表で見ていきます。

できごと
182 0 孫権、誕生する
192 10 父の孫堅が戦死する
200 18 兄の孫策が暗殺される。孫策の意志を継いで江東を治める
203 21 父の仇である黄祖を討つために黄祖を攻めようとするが、内乱により断念
207 25 再び黄祖を討とうとするが、失敗する
208 26 再び黄祖を攻め、ついに父の仇を討つことに成功する
魯粛の勧めで劉備と同盟を組む
曹操との徹底抗戦を決断、赤壁の戦いで大勝利をおさめる。ただし、その後の追撃において勢力を広げることはできず
209 27 曹操統治下の江陵を攻撃するも、隙を突かれて江陵を劉備に奪い取られる
自身の妹を劉備の元へ嫁がせる。(同盟強化のための政略結婚)
荊州を奪い返すかどうか悩んだが、周瑜の急死も影響し、ひとまず荊州は劉備に「貸す」ことにする(ただし、その後は事実上の借りパク状態になる)
212 30 建業を建設(建業はのちの呉の首都となる)
213 31 曹操軍を濡須で迎え撃つ
215 33 曹操軍に攻め入るも、敗北する(合肥の戦い)
216 34 曹操軍を濡須口で迎え撃つ
217 35 曹操との長期戦を恐れ、和睦する
219 37 荊州の関羽が樊城に攻撃した隙に荊州を奪還し、関羽を処断する
220 38 関羽の首を曹操に送る
221 39 怒り狂った劉備と和睦しようとするが、失敗
劉備に備え、魏の曹丕にいったん従属する
222 40 夷陵の戦いで勝利する
魏との関係が悪化する
再び劉備に同盟を持ちかけ、同盟が成立する
223 41 曹丕軍を濡須口で迎え撃つ
228 46 曹休軍を石亭で迎え撃つ
229 47 呉を建国し、皇帝に即位する
234 52 合肥新城に侵攻するも、失敗する
252 70 孫権、天命を全うする。享年70歳

黄巾の乱から五丈原までを生きた孫権

孫権は劉備や曹操と比べると遅い時期に誕生したため、寿命を迎えるのも252年とかなり遅い時期になっています。その生涯は黄巾の乱から五丈原の戦いまでをしっかりカバーしており、まさに三国志の歴史を実際の目で多く見てきた人物と言えるでしょう。

三国志においては劉備と曹操の戦いがピックアップされることが多いですが、孫権(呉)の視点で三国志を見ていくと最初のころは父の敵討ちに燃えている時期であり、赤壁の後は地盤を固めながら曹操(魏)を迎え撃ち、そしてかねてより自分のものであると考えていた荊州を奪還する隙をうかがっていたといえます。

その一方で、夷陵の後は魏との関係は悪化するも、それほど激しい戦闘がたびたびおこなわれたわけではなく、蜀と比べると比較的穏やかに過ごしていたといえるでしょう。

孫権は攻めてくる敵を追っ払いはしたものの、逆にそれ以上の領土を拡大することはあまり積極的には行いませんでした(というより、状況的に動けなかったのかも)。どちらかというと内政に力を入れて領内を発展させることに力を入れたと考えられます。

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