分裂する袁家 ~曹操の河北平定戦~

官渡の戦いに勝利した曹操のその後の動きについて見ていきます。

官渡の戦いでぼろ負けした袁紹はその後病死する

官渡の戦いで敗北した袁紹はその後も曹操との戦で敗北を重ね続け、ついには病に倒れてしまうことになります。こうなった袁紹の勢力はもはや曹操に劣るものとなり、曹操の一方的な追撃しかありません。

ちなみに、この裏で劉表を頼っていた劉備がしばらくの間平和な時期を過ごすことになりますが、それは曹操が河北の平定に集中していたからです。

袁家の後継者問題

袁紹は202年に病死しました。このため次の後継者を決める必要がありますが、この時「袁紹の息子である長男の袁譚」と「袁紹が特に面倒を見ていた息子の袁尚」の2人の間でどちらが次の袁家のトップに立つのかを争うようになります。

この時代跡継ぎは長男がなるのが慣例でしたので、この通りに後継者を選ぶのであれば袁譚が次の後継者となります。しかし、袁尚が「私が一番父に信用されていた」と主張し、後継者争いに発展しました。元袁紹の配下であった武将や参謀たちもそれぞれ分裂することになります。

最終的には袁尚が袁家の後継者として勢力を保つことが決まりましたが、当然袁譚は納得しませんでした。そして、曹操はこの後継者争いの隙を見逃さずに攻撃を加えます。

ぎくしゃくする袁尚勢力

袁尚は攻めてくる曹操軍に対してこれを迎え撃とうとしますが、傘下の袁譚にはわざと十分に兵力を与えないなど、目の前の敵よりも後継者争いで嫌いになっていた袁譚を冷遇することに力を入れていたために十分な連携を取ることができず、袁尚軍は十分に力を発揮できません。

自ら手を下すまでもない

曹操にとってはまさに絶好の攻める機会ですが、今下手に袁尚を攻めると袁尚勢力の結束を逆に強めてしまうと考えた曹操は攻撃を仕掛けるも、かなり消極的な攻めでちょっかいをかけるだけにとどめます。

そして、曹操の思惑通り袁尚と袁譚の仲はついにお互いの軍隊がぶつかるまでに険悪化し、全体で疲弊していきました。お互いの争いは袁譚が負けそうになって逃走するまで続き、負けそうになった袁譚は部下からの勧めで曹操軍につくことを考えるようになります。

まさに曹操にとっては最高のシナリオでことが進んだと言えるのではないでしょうか?

時間はかかったが河北を平定した曹操は盤石な地盤を築く

河北を平定するのには5年以上もかかりましたが、曹操は河北を平定することに成功し、曹操軍の勢いはさらに増すことになります。同時期において劉備は諸葛亮を迎え入れることに成功し、孫権は内政に力を入れつつも軍備の増強も行っていました。

曹操軍の次の矛先は劉備と孫権に向かうことになります。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク